『自由くん』と『孤独ちゃん』

自由と孤独は表裏一体

震災から8年

東日本大震災から8年目。

ということで、今朝からテレビで震災のことをやっていた。

気づけば、神戸も阪神大震災で被災しているんだよなぁ、そんなことを思わせないくらい復興しているよなぁ…と、今回神戸に行って思ったけれども、でも見えないところでは癒えていない部分も沢山あるのかもしれない。

 

東日本大震災の傷跡も、未だにあるよね。

常磐線も、通ってないところあるし。

 

あえて、傷跡を残してあるところもある、と今朝テレビでやってた。

 

私も以前、大洗の津波の被害を見に行ったりとか、岩手や宮城の被害も実際に見たけれども、もう、現実にそんなことが起こったとは…って、怖くて怖くて仕方なかった。

沢山の犠牲者が出てしまったこと、考えると本当につらい。

もう二度と、起こらないで欲しいよね。。。

 

 

 

私はあの日、今とは別な職場に居て。

誕生日の翌日だったし、「今日仕事終わったらゆっくりみんなにお礼のメールしよ〜」…ぐらいに気楽に考えてた。

工場のような所だったので、15時から15分の休憩があり、その休憩の前に現場行って伝票回収してきといて、休憩後その処理やろ〜、みたいな。

 

で、現場に出向いた時、工場内にいたオジサマ方が

地震!!!」

って。

そーぉ?そんなに揺れてる…?

ぐらいにしか思わなかったんだけど、オジサマ方が外を指さして走って出て行く。逃げろ、ということだ。

確かに、現場には倒れてきたら危ない物がいっぱい置いてあったし、逃げる状況でした。それでも、「そんな揺れてるかねぇ…?」ぐらいに思ってて。

だけど、一緒に外に逃げて行って、オジサマ方と避難態勢に入っていたら、もんの凄い揺れが襲ってきた。それが、14:46だったんだと思う。

私、地震で悲鳴をあげたの、あの日が初めて。

両足で踏ん張らないと、立ってられないような揺れだった。

 

それから、工場の中には入れなくて、しばらく外で呆然とする職員たち。

やがて現場の若い男性職員たちが、ワンセグでニュースを見だして。そこで、津波のもの凄い映像が流れ、みんな恐怖した。

 

私もスマホで色々と調べようとしたり電話かけようとしたりしたけど、繋がらなかった記憶。

 

しばらくして事務所には入れたけど、停電しちゃってどうにもならない状況だった。その時の私の職場は、地盤がしっかりした土地だったらしく、あんだけ揺れても事務所の被害はほとんど無かった。引き出しが開いちゃったりしたくらい。

地盤がしっかりした場所であんだけ揺れたんだから、じゃあ、家の方は…?!と思うと、本当に怖かった。

 

1時間半くらいして、重役たちから「帰れ」という指示。つかその指示遅くない…?と思った。

 

それでとりあえず車で帰り始めたのはいいんだけど、街中の信号が停電してしまっていて、またそれの恐怖!

国道に出る信号だけ生きてたので、あぁ!もしかすると主要道路は大丈夫なのかも?!と思い、国道から帰る決断をした。でも、走れど走れど信号は停電状態。

私、家に帰るには国道から右折しなきゃならなくて。

どこで曲がる決断をすればいいのか…なかなか決められないままに走ってきてしまって、もう、曲がらなきゃいけない道もあと2つのどちらか。

でも、決断した方は、もう、全く曲がれなくって。

さっきの道だったら曲がれたのに!!!…って、むちゃくちゃ後悔した。

だけどこういう時ってトラックの運ちゃんホント優しいの。大きな車体で、こちらに向かってくる車たちの盾になってくれて、表情と手でコッチに『曲がっちゃいな!』みたいな感じで誘導して私を曲がらせてくれたの。あの時は泣きそうになった。感謝してもしきれないよ。

 

それ以降は、信号をなるべく通らない道を選択して、なんとか自宅方面へ。

我が家が近づいてきた時、母が、近くのコンビニで何かを買ってきたようで、ビニール袋を揺らしながら帰宅している後ろ姿を発見した。

「お母さん…!」って、ここでは安心からくる涙だった。

 

でもそれ、コンビニで何買ったか、って、その日の父の晩酌用のビールだったの。笑

こんな日にビール買う人いる??

…って、近所の人にも笑われた、と言ってた。笑

どんだけ父を愛してるか知らんけど、なんでそこまでしてビール手に入れたかったんだよ。。

愛おしい母だなぁ。

(しかも父も普通に晩酌したし…)

 

家はボロいから、もしかしたらあんな揺れじゃ崩れちゃってるかもしれない…!と焦って帰ったけど、ちゃんと形があったからとても安心した…。そりゃ、ヒビとかは未だにあるけどね。何とか暮らせています。

 

帰宅時はまだ外も明るかったけど、暗くなるのも早くて。

でも停電してるからどうにもならず、ロウソクに火、父はポータブルラジオをオンに。あとは、祖母がくれたパンを少しずつ食べて過ごした。

タツも点かないため、コタツ布団に家族4人でくるまって、温め合いながら寝た。

色々日中にスマホで調べすぎてしまって、電池が減ってきちゃってるのがホント焦った。こんなんじゃみんなにお礼なんかできるわけないじゃん、てか、私からはもう今は生存状況も何も発信できません!…と思ってた。

 

とにかくでも、家族4人が揃っていたことが本当に心強かったなぁ。恐怖の夜だったけど、その日は父のくだらないダジャレとかにめっちゃ救われたよね。

 

水も止まってしまったから、トイレ行けないと思うと食欲も無くなってしまって、翌日もパンをちびちび食べるだけだった。

地震は金曜に発生したため、私は土日仕事休みで、家の片付けをすることができ、月曜にはもう普通に仕事行ったもんね。てか、仕事なんか無かったけどさ…。なんであん時会社は休みにしてくれなかったんだろうなぁー?今考えても意味分かんない。

 

私の部屋は、タンスと棚が見事に倒れてしまっており、ドアを押して開ける部屋だったから、まず入れない状態。

でもそこをグッと押して隙間から侵入、まずは棚とタンスを起こすところから開始。

棚にはガラス戸がついてたんだけど、もちろんバリバリに割れてしまっていて、片付けながら何回も手を切ってしまった。。

大変な状態だったから、部屋で寝れるようになるまで、だいぶかかったなぁ。

 

あの時は、お風呂の水とか取っといた方が何かと役立つ…とやっていたのに妹がお風呂の水を早々に抜いてしまっていて、責められたため、しばらくは水を抜くタイミングに恐怖してたよ。

私は、湯たんぽの水があったので、それをトイレ用に使ったりしてました。母は、外で用を足したりしてたけどね…。

 

でも確か、2日後くらいにはガス→水→電気と復旧してくれたので、きっとそこまでは困らなかったと思う。

他の市とかはもっと水が出ない日々が続いてたりして、友人宅に風呂を借りに行った…とかいう話をよく聞いた。

 

母も2日後くらいには買い物に行き始めて、ちょこちょこ何かを買ってきてくれてた。

どうやら震災当日はドラッグストアで買い物中だったようで、その時に父のビールを買うつもりだったらしいの。でも、震災が発生したためその店では「購入中止」となってしまったみたい。だから焦って、コンビニでビールを買ったそうです。

真面目か!笑

 

ガスが復旧してからはカップ麺とかも食べられたし、結構恵まれてたと思う。

 

でももう1つの難はガソリン。

どこ行ってもすんごい行列。

並んでも、入れられるかどうか…というような状態。

だけどいつも行ってるスタンドに1〜2時間並んだら入れられたから、あの時はホッとしたなぁー。

その時はすごくツイッターの情報が助かったんだよな。そりゃ、デマもあったけど。。

 

あれ以降、ガソリン半分切るともう入れなきゃ!って気になって、ちょこちょこ入れてる。怖いから。

 

今でも、鮮明に思い出すあの日のこと。

 

 

もっと怖い思いした人は、もっと憶えていることだと思う。ずっと、怖いことだと思う。

 

日頃から備えなきゃいけない、ってホントそうで、また起こるかもしれないことにはちゃんと備えとかなきゃいけないし、あと、普段の日常も、決して〝当たり前〟なんかじゃないんだと。日々を大事に生きなきゃいけないと、そう改めて思う。

 

あの日の数日後に起こった余震の時は、私は車の中にいて。

前のトラックがめっちゃくちゃ揺れてる…!と思ったら、私の車もグワングワン揺れてた。

その日も悲鳴をあげてしまった。本当に怖かった。

車が横転するかと思ったくらい…。

 

地震…。

各地で起こってるけど、いきなり起こるから本当に嫌だよなぁ。大きな地震がある前に、メールで緊急警報?がくる…ってなってるけど、直前にメール来られたって、こっちはどうしたらいいか分からないもんね。だから、やっぱり普段からの備え…なんだよね。

 

 

 

今日の14:46なんて、めちゃくちゃルミネの中だった。

なんか振り返ってみて、そんで良かったんか?…ってちょっと思っちゃった💧

少し反省します。。。

 

 

これからも、色んなことを想定しながら、備え、そして、日々を大切に過ごさねば。と思います。

 

でもやっぱり、地震起こんないで欲しいけどね。

それが、いちばん。