『自由くん』と『孤独ちゃん』

自由と孤独は表裏一体

「面白い」

「面白い」というのは、とてもシンプルだが、非常に難しいものだと思っている。

 

以前、ちょい推し…くらいのバンドマンがおり、私は彼の書く文章のファンでもあったのだが、彼は時々ちょっとだけ乱暴なことを書くフシがあった。

「決めつけ」というかなんというか…。

その彼が、「誰もが〝面白い〟と思えるものは絶対に面白い」というようなことを書いており、その笑いについて否定的だったバンドメンバーのことを下に見ているような、、、といったら聞こえが悪いけど…とにかくまぁ簡単に言うと「俺が面白いと思ったものを笑えないとかありえん」…みたいな文章だったのよ、もちろんそこまで乱暴には書いてないけれど。

 

またそのバンドメンバーさんも優しいから、「ごめん、俺がまだまだ理解できてないだけだった」とか謝ったみたいなんだよね。

いやいやいや、、、その時笑えなかったのって、決してそのバンメンさんの所為じゃなくない?少なくとも、謝る必要って無くない??

「感じ方」って、みんな一緒じゃなくちゃいけないものなの???

「笑い」って、強要されるものなの???

 

 

その文章を読む以前にも、「それってどうなのかなぁ…🙄」と疑問に思う内容もあったし、大々的に「これをやる!」って企画発表した割には尻すぼみになって、最終的に達成したかどうなのかも分からず、中途半端にフェイドアウトしていった事項もあった。

曲が非常に良かったので好きだったのだが、そんなこんなあって私はファンをやめた。

 

「ファンをやめる」っていうのは私の中で、共感から離れていくもの…のようだ。

そりゃ、全部が全部共感できる文章じゃないというのは百も承知だが…小さな疑問から、疑心暗鬼に変化していたのかもしれないな、もしかすると。

 

 

まぁ、

そんなことはどうでもいいのですけど…。

 

 

とにかく私は「誰もが面白いと思えるもの」なんてモノは存在しないと思っている。

〝ウケる〟ものは沢山あるけれど、全人類100%が笑えるモノなんてこの世には無いと思うのだ。

 

ぺこぱのM-1のネタで、「誰も傷つけない笑い」というのが話題になった。

本人たちも仰ってるけど、そんなん存在しないと私も思ってる。

 

イジられて生まれる笑いは、かつてそうやって虐められてきたような人にとっては苦痛かもしれない。ドッキリとかでもそうだ。

それでも、他人の不幸を観てみんな笑ってしまうのだ。だから番組は成立している。

 

でも例えば目の前で誰かがすっ転んで、可笑しな転びかただったからと笑っちゃう人もいれば、可哀想に思う人もいるでしょう。

 

芸人さんがネタをやって、おもしろギャグを披露して爆発したとして、「あの人って◯◯な性格だから嫌い。笑えない」と思う人もいるでしょう。

 

〝平和な笑い〟で思いつくのは、「もう先生」こともう中学生さんだけど、、、あのネタを見て「は?何言ってんの?全然意味分かんないんだけど。」と言う人もいるだろうと思う。

 

さっくん」こと佐久間一行さんも、「自分が観ててヤダなぁと思うことはやらない」というようなことを仰っていたので基本平和なネタではあるが、そういうネタの中であっても、こんだけたくさん人間がいたら、どこで傷つくか…なんて分からないんじゃないかな。

 

だけども、「うわっ」ってなって笑えなくなっちゃうのが勿体ない…という考え方でネタを作ってらっしゃるそのスタンスについて、私は支持してる。

 

そりゃ、傷つく人が多いより少ない方がいいに決まってるもん。

 

しかし、その「傷つく」とか「イジり」とかと、「笑える」の狭間をぬって…結果「面白いこと」を生み出す、、、って、なんて難しいことをやってる人たちなんだろ…

 

お察しします。。。

 

 

 

そんな中でもめちゃくちゃ芸人さんがいて、私自身「面白い!」と思う芸人さんだっていっぱい居るのだが、その中で〝推し〟になるっていうのは、、、また、なかなかのことだと思っている。

結構なアレコレが合致しないと、〝推し〟にまでならないと思うんだよね。

…少なくとも、私にとっては。

 

しかしいま、私は有り難いことに、推しに出逢うことができた。

たくさん笑わせてもらえるのはもちろんのこと、たくさんの共感もあり、たくさん感情を解放させてもらえる。

 

こんなに夢中になれるのって凄いことだと思うし、嬉しい。

 

でも、

その〝推し〟がいくら自分の中で面白いと思うからって、他人に対して「絶対面白いのに笑えないってナニゴト⁉️」とは私は思わない。

というか、私だって推しで笑えないこともあるし。

全部が全部、面白いなんてウソだろ。

神様じゃあるまいし。

推しの一挙手一投足が全部面白くて全部好き、、、とか言う人は逆に信憑性が無いと思っちゃう。

 

私だって好みの芸人さんがいるのだから、他人だってそうであると思う。笑いのツボは人それぞれであって、育ってきた環境とかでもまた変わってきたりするものだ。だから私は推しの沼にハマっているからといって他人に強要はしない。布教は……多少してるけど。笑

 

だから「笑えないとかありえん」というような表現は解せなかった。それは今でもそうだ。

賞レースを獲ったから絶対面白い!…ってもんでもないと思う。たくさんのお笑いファンが支持しているから絶対に面白い!…っていうのも違うと思う。

 

現に私は推しがKOCチャンピオンになった当時は面白いと思っていなかったし。

その後、「賞レース獲ってんだから面白いはず」というキッカケでライブに足を運んでいるんだから、人の感情なんてよく分からない。

自分で自分の感情もよく分からないんだからねw

 

その時そのネタを見た人が、単純に「面白い」と思って笑ったらそれでいい…と思う。

 

 

 

中学2年の頃、隣のクラスに青森ガールが転入してきた。初めは誰も友達がおらず、クラスの隅っこの方でずっと立ちんぼだったらしい。

その青森ガールが、我がバレー部に入部するというので、案内することになった。

 

すると、どういうハナシをしていたか忘れたが…

いきなりソイツが山本リンダのモノマネを激しいアクション付きでぶっ込んできたのだ!!!

 

もちろん私たちは山本リンダ世代ではないのだが…

 

…最っ高に面白かった。

めちゃくちゃに笑った。

 

ソイツにとっては、一世一代の大勝負だったんじゃないかと思う。だってそれまでは「おとなしい子」だったのだから。

あの爆発力よ。。。

もしあすこでスベっていたら、残りの中学生活はパーになっていた可能性もある。

だから彼女はすげぇカッコ良かった。

一瞬にしてヒーローになった。

彼女にどれだけ笑わせてもらったか分からないし、月曜はいつも2人でダウンタウンのマネをしていた。(日曜に「ごっつ」と「ガキ使」があったから)

そしてたくさんのサブカルチャーも教わった。

 

あれから何年も経つが、忘れられない出来事だ。

 

 

 

「面白い」は実にシンプルであるが、その瞬間瞬間によって「笑える」か「笑えない」かは賭けであり、本当に難しい。

 

どんなに自信満々で放ったギャグでも、ハードルを上げすぎて笑えないこともある。

 

芸人さんがパーソナルな部分をたくさん見せていることも、場合によっては足枷になるんじゃないかと思ったりもする。

 

正直言って私は、寄席でネタを観た時に「でもこの芸人さん、◯◯って発言しててあんまりいい気しなかったなぁ…」と思うと、どんなに小気味いいテンポの漫才でも途端に笑えなくなることがある。

それであんまり好きじゃない芸人さんも居たりするし…。

 

だけど、バラエティ番組には芸人さんも必要不可欠で。

 

いかにその番組を巧くこなしながら、ネタも笑えるか、、、

 

芸人さんって、すんげぇ所にいるなぁ。。

 

 

 

ふと思ったのが、

推しが好んで発する「ウ◯コ」「チ◯コ」などの下ネタについて、、、

 

これって単純明快で、たくさんの人が笑えるワードだから、多用して当然だよなぁ…と。

 

昔からそうだもんね。

ドリフとかでも「ウ◯コ」「おっ◯い」よく出てきたわ。。

これらの下ネタってもうお笑いの基本形なのかもしんない…。

 

 

だけどもこれだって、顔をしかめる人はいると思うし、みんながみんな笑えることでも無いとは思う。

 

でもそれでいい。

 

 

「面白い」と思える人がいて

「笑える」ならそれでいいんだ。

 

 

 

シンプル。

 

だけど、

難しい。。。

 

 

 

先日KOCの1回戦を観て、「面白い」がよく分からなくなってしまった私ではあるのだが😅、実はそのあとハッキリ自分の中の「面白い」の答えが出ていないような気もしている。

 

しかし、推しの単独では「顔芸」で笑っていた。

これが一番面白かった。

 

 

…それが答えなのか?

 

 

 

よく分からない。

 

 

 

でも「笑える」ことが全てなのだ。

私はその感情に素直でいたいと思う。

 

 

 

人によっては笑うかどうかも分からないことを一生懸命自分が「面白い」と信じて放っている芸人さんは尊敬します。応援します。

 

これからも観続けさせてくださいね。