『自由くん』と『孤独ちゃん』

自由と孤独は表裏一体

『甘いお酒でうがい』のこと

 

 

私が『甘いお酒でうがい』をバイブルのように崇めている…ということは、このブログの読者なら既にご存知のことだろう。(読者などいないが)

 

最近になって思うのが、「映像化しないで欲しかった」ということ。

 

やっぱり、私は自分で本を読んだ時の想像のままでいたかったように思う。だが映画化され、佳子さんや若林ちゃん、岡本くんの「役」を演った方々により、そのイメージがついてしまった。

これが正直、いま、邪魔だ。

 

ふと本を読み返した時に、その役者さんで頭に浮かんでしまう。

 

私は、私の想像のままでありたかった。

 

 

確かに私は映画を観て、そして、泣いた。

だがそれはじろうさんの脚本だったからだ。

推しが描いた本ならば、そりゃ観るだろう。

そして、原作があんなに泣けたのだから、泣くのも当然の流れだと思う。

 

でも今、「やっぱり観なきゃ良かった」と思っている。ごめんけど。

 

 

映画が泣けたのと、推しが原作・脚本を務めたから…という理由で、DVDを一瞬購入しようとした。

しかし、送られてくる前に購入をキャンセルした。

 

…こうなる未来が見えていたのかもしれないな。

 

 

 

佳子さん役の松雪さんはいいとして、

「母親の後ろ姿に似た人の、後ろに並ぶのが好き」

の時の〝母親〟が、映画のなかでは「おばあちゃん過ぎる」のがまずあまり好きではない。え。監督は佳子さんの〝母親〟をこんな感じだとお思いで??……って正直がっかりしている。

確かに、佳子さんの年齢的に〝母親〟が70〜80代ぐらいなのはまぁ…あることだとしても、でも、それにしてもあの母親似の役の方は白髪過ぎだし、あと、佳子さんのお母さんはもう亡くなっているよね?いつ・何歳で亡くなったのか…そういう具体的なことは書いてないから分からないけど、既に亡くなっていたら、佳子さんの頭の中では「若い時のお母さんの姿」で出てくるのではないだろうか。

少なくとも私の場合、病気してからの母はもう歩けなかったし化粧もできなくなってだいぶ老け込んでしまったが、「1人で電車に乗れた頃の母親」を想像するととても若い母親(40〜50代くらい)の姿が脳内に出てくる。それに本を読んでいた時は「佳子さん=中の人=じろうさん」のつもりでも読んでいるから、幸子ママが亡くなった時もまだ若かったと思っているし…だから、あの役のかたはおばあちゃん過ぎるのだ。(だからってあの役のかたが悪いわけではない。キャスティングがね…🤦🏻‍♀️)

私は佳子さんと歳も近いと思いながら読んでいたのもあるから、なんでその佳子さんのお母さんがあんなに〝おばあちゃん〟なんだろう、と。本を読んでるとあんなに佳子さんとリンクしたのに、あの〝おばあちゃん〟では全然リンクしないし納得がいかない。

 

言ったらなんだけど…人は全員死ぬわけで、〝おばあちゃんが亡くなる〟っていうのと、〝母親が若くして亡くなる〟っていうのとはまたちょっと想いかたも違うような気がしている。そりゃ当然、祖母が亡くなった時だって悲しかったけれど、、、でも、年齢的に「仕方ない歳」ってのもあるじゃない。だってみんないずれは死ぬんだから。

でも私(と、じろうさんも)の母親は「病気さえしてなければ年齢的にもまだあと20〜30年は生きられたはず」と思うから余計に悲しいし、悔しいし、泣くのだ。

 

当然、本でこの部分を読んだ時に私の中で自分の母親を想像してないわけが無く、、だからこそすごくすごくすごく泣いたわけで。。

 

それを、あんな白髪のおばあちゃんで表現されたのは、、、やっぱりちょっとイヤだった。

 

あのひとはおかあさんじゃ無い。

ぜったいに。

 

私の中のイメージが崩れた。

 

むしろあれをやるんなら、松雪さん本人を70年代メイクみたいな感じにして〝母親役〟として2役演ってもらったほうが良かったのに。と思っている。

(や、そもそも映画化しなくて良かったんだけど😒)

 

 

 

 

それに若林ちゃんも………私の中でなんか違った。確かに黒木さんは凄い役者さんだから、映画の中ではハッチャケてバッチリ若林ちゃんになりきっていたけれど…でも、私の中ではもっと若林ちゃんは〝憎めないバカ〟みたいな感じで…何となくイメージが違ったのだ。黒木さんは色々な役を演じてるからこそ、〝バカ〟にはどうしても見えない。…いや、本の中の若林ちゃんも本当はバカでは無いのだろうけど笑、でも、私の中のイメージがあったのだから、、、仕方ない。(どうしても役者さんで当てはめるなら、尾野真千子さんといったとこだろうか…)

 

黒木さんのことは、『あゝ、荒野』の舞台で初めて観て、その演技が凄くてとても好きだったのだが…

 

数年前に『A-Studio』に黒木さんが出た際、じろうさんが〝仲良しの1人〟として取材を受けていて、その時に、黒木さんが長谷川さんのことを「はしもとさん…」と言っていたのが正直ショックで。

いや〝シソンヌ〟のファンじゃなかったんかい😒

…ってなった。

じろうさんのことを好きなのはいいけど、、それにしても長谷川さんのことを蔑ろにしすぎ。ってね。

興味持たないにも程がある。差別じゃん。

〝愛あるイジリ〟って感じでもなかったし、本当に興味が無くて長谷川さんの名前を覚えていなかったんだとおもう。そういう風に見えた。

 

そのことがあってから、黒木さんのことを好きじゃなくなってしまったのだ。

私は箱推しだし、2人で演っているコントが好きだ。だからどちらが欠けてもダメなのだ。そりゃここまで私がシソンヌにハマったキッカケは『甘いお酒でうがい』だし、じろうさんのほうが贔屓目にはなっちゃってるよ?笑

でもだからって私はそんなふうに蔑ろにはしないしそういうふうにする人は好きくない。だって、名前なんて基本中の基本じゃん。名前すら忘れる…って、ちょっと。ねぇ。。

 

 

そんなこんなあって、

私が好きでたまらなかった『甘いお酒でうがい』に、好きじゃない人が出てしまってる…という構図になってしまった。

 

 

 

それに、

清水くん。

 

彼も、映画で観てた時や舞台挨拶の時は「いい感じ☺️」と思っていたけれど、最近…『東京リベンジャーズ』のCMでさ、嫌な感じの顔で

 

 

「おっぱじめるかぁ〜⁉️」

 

…とか言ってるのを見ちゃったとき、

あぁ…そりゃもうガッカリ😞

 

私の中の岡本くんが。。。。。

 

 

 

確かに役者さんですから、色んな役を演って当然ですよ。イイ役もあれば、悪役もあるでしょう。それは仕方ないこと。だから別に清水くんが悪いんじゃない。

 

 

でも…

 

私の中のイメージは、そりゃ穢されてますよ。。

だから映像化しなきゃ良かったんだ…

 

よしもと…許すまじ。。

 

 

 

 

『甘いお酒でうがい』って思い浮かべた時に、映画化前だったらあの本の表紙を思い出して、あとは自分が本を読んでた時のイメージのままだったハズなのに、

 

今ではまず、映画のポスターが浮かんでしまう。

 

出てくるみんなが、役者さんたちの顔で浮かんでしまう。

 

 

 

これがいま、

すごく嫌だ。

 

 

 

これはちょっと神格化しすぎた弊害だわ🤦🏻‍♀️

崇めすぎるからこうなる。。

 

でもあの本は私にとって、大きな一歩を踏み出す大事な本だったんだ。あの本に出逢ってなかったらこんなに推しにはハマっていなかったかもしれないし…ということは、まだまだ母を失った悲しみをずーっと引きずっていたかもしれない。

本のおかげで推しが大好きになって、それでたくさんライブも観に行くようになって、こんなに笑えるようになった。

だから、それだけ大事だったの。私にとって。

 

 

 

一度観たものは、忘れようと思っても忘れられない。

 

私はこれまで、「閲覧注意」的なモノを見て後悔していることもたくさんある。未だに忘れられない。

 

そういうモノのひとつになってしまったような。

 

何でもかんでも映像化すればいいってもんじゃないよ。

 

 

 

物凄く売れた本や漫画を映画化することも多いけど、私とおんなじように「イメージと違った」「そんなふうなら映画化して欲しくなかった」って思う人は居るだろうと思う。ビジネスのためだけに何でもかんでも映像化しないで。本は、文字だからこそ良かったりもするのだ。なんなら挿絵も要らない。

読み手の想像に対し、誰か役を立てることでイメージを固定させるのってある意味〝悪〟じゃないかしら。

何より、愛読者の持ったイメージを穢さないで欲しい。

 

 

 

最近ずっと、そういうことを思ってしまっていたのでとうとう書いてしまいました。これを読んで嫌な気持ちになった方がいたらごめんなさい。

 

だけど、正直な気持ちなんです。

 

 

 

あの本は、

本のままであって欲しかった。

 

だいすきだから、こそ。